人生諦めが肝心
おれの座右の銘は「人生諦めが肝心」。
その心は、諦める=期待しない。
おれは自分以外の人間すべてを諦めている。
他人に期待しない。
信じられるのは自分だけ。
期待しなければ「期待外れ」もない。
期待しなければ裏切られても許せる。
期待しなければ見返りがなくても許せる。
諦めることは期待しないことであり、延いては許すことでもある。
武者小路紫苑も「期待しすぎるとロクなことがねえ」って言ってるよ。たぶん。
あと、他人を諦めているので、他人に精神的な(という表現が正しいのかわからんけど)何かを求めることもない。
もちろん日常生活でのお願いとか仕事の依頼とかはあるけどね。
おれは完璧主義者が嫌い。
人間なんて不完全な生き物なのに、どうして(局所的とはいえ)完璧を求めるのか。
自己完結してるなら別にいいけど、あいつら他人にも完璧とやらを求めるでしょ。
しかも、ここで言う完璧(笑)ってそいつが勝手に決めたラインで、こっちは知ったこっちゃねーし。
自分がこれだけできるんだから/やったんだから周りもこれくらいできて/やって当然と思ってる。
自分のポリシーに人を巻き込むのやめな~。
...少々脱線しましたが、要するに求めなければムカつくこともがっかりすることもないんですよ。極論ね。
期待したばっかりに相手の言動に一喜一憂するなんてあほらしいでしょ。
いつも心にクロコダイルを───。
「すべてを許そう、なぜならおれは...
Path of the Abyssのすゝめ
年末年始にPath of the Abyss(以下PotA)っていうダンジョンRPGを遊んだんだけど、ちょっとおもしろすぎたので感想をば。
今回も例によって足りない知識と足りない文才で思いの丈を書きなぐるので、読みづらいかもしれないがご容赦ください。
おれは絶対にSteamレビューを書かない男なので、ブログくらいしか吐き出す場所がないんだ。(Steamレビュー書け)
PotAはハクスラ風味のダンジョンRPGで、2024/01/15時点で早期アクセスのゲーム。
個人デベロッパーのすずきすずぞう氏が開発しており、音楽はイラストレーターでもあるhasu氏が担当している。
https://twitter.com/suzuki_suzuzou
いわゆるウィザードリィの系譜なんだけど、おれはウィザードリィ含めダンジョンRPGというジャンルに一切触れたことがなくて、でも宿屋の看板娘のデザインが妙に刺さって、800円だし軽い気持ちで買ってみた。
ゲームのあらすじはこうだ。
こういうクラシックな導入に弱い。
まずは酒場兼宿屋の『巨人の背骨亭』で仲間集めだ。
人種はヒューマン、エルフ、ドワーフ、カリンの4種類。
勉強不足でカリンだけ存じ上げないが、ダンジョン飯でいうチルチャックのポジションと勝手に解釈。
脱線するけど、おれがPotAにハマった要因のひとつに、どことなくダン飯みを感じるというのがある。
みんなダン飯を読んでくれ。あとアニメも観てくれ。まじでおもしろいから。
話を戻すと、人種ごとに先天的な強み弱みがあり、この時点でどういうパーティーを編成するかある程度のイメージが必要。
おれは平気で攻略情報をググりながらプレイするタイプなので、PotAもいろいろ調べた。
「現時点では物理スキルが強いからエルフ1ドワーフ3の構成がいい」などと書いてあった。
そんなのダン飯読者のおれが許さないので、結局それぞれの人種をひとりずつ採用。
ちなみに、このゲームはキャラの立ち絵ポートレートを自分で好きなものに置き換えることが可能。
ということで、本作の音楽を制作したhasu氏描き下ろしのエルフちゃんに早速置き換え。
そのほかのキャラもX(旧Twitter)やSteamコミュニティにて公開されている、有志によるイラストを拝借させてもらった。
さらに、『ウィザードリィ外伝 五つの試練』用にずんこ。氏が見繕ってくれたポートレート制作補助ツールを使えば、自分の好きな画像から立ち絵をトリミングできる。
しかもPotA用の規格も選べる親切設計、常識の範囲内でありがたく使わせてもらおう。
レベルの概念もあり、レベルアップで得られたポイントを割り振ってビルド構築する。
成長させるのは『アビリティ(スキル)』と『基礎パラメータ』の2種類あり、理想のステータスもしくは戦い方を目指してそれぞれ好きなように強化しよう。
パーティーもそろったところで、お次は『下水道』という名のチュートリアルステージでPotAのいろはを勉強。
ウィザードリィよろしく一人称視点でずんずん進んでいく。
オートマッピングなので自分で鉛筆片手に方眼紙を広げる必要はない。
戦闘におけるすべての行動は、4人のキャラで9枚のパネルを共有し、これをプレイヤーの采配で発動していくもの。
文字だけで説明するのは難しいので、まずは下の画像をご覧ください。
3枚のパネルが3列並んでおり、上から順に前列→中列→後列という扱いになる。
敵はこのパネルそのものを攻撃してくる仕様で、前列のパネルがより狙われやすい。
つまり、前列には攻撃に耐えられる壁役のスキルを多く配置し、打たれ弱いエルフやカリンは後列からバックアップするのが順当だ。
スキルは大別して2種類あり、『モラル』を消費する物理系の技と、『マナ』を消費する魔法系の技がある。
任意に発動するのではなく、パネルに配置するだけで効果を発揮するエンハンススキルもある。
また、スキルの中には『シナジー』という効果を持つものがあり、例えば「影響範囲のスキルを使用すると防御力アップ」などができる。
とにもかくにも、パネルの組み合わせによる戦略性の高さがおもしろくて、理想のパネル配置を試行錯誤するだけで日が暮れる。
戦闘はリアルタイムで進んでいき、ややハイスピード。
ぼーっと考えてるとあっという間に死ぬ。敵の殺意がすごい。
任意のタイミングで一時停止できるほか、敵が戦闘準備もしくは攻撃してくる1秒前に自動停止というオプションもある。
だが、このテンポのよさこそがPotAの醍醐味であり、脳汁ポイントでもある。
はっきり言って速すぎて何が起きたのかわからないこともよくあるが、後から戦闘ログで確認できるのでご安心あれ。
前述のパネル配置の試行錯誤も兼ねて、この戦闘ログには多くの冒険者がお世話になること必至。
ダンジョンで敵を倒すたびに『制圧度』と『マナ汚染度』が高まっていく。
『制圧度』が高くなると敵のアイテムドロップ率が向上する。
『マナ汚染度』が高くなると敵のドロップするアイテムの品質が向上する。
その代わり、強い敵と遭遇しやすくなったり、キャンプで休憩すると病気になる確率が上がったり、デメリットもある。
このゲームはつまるところハクスラであり、高い制圧度とマナ汚染度を維持しながらダンジョンに潜り、敵を片っ端から倒して、価値ある装備をザックザク掘るのだ。
宿屋で休息するとあらゆるステータス回復と併せて、制圧度とマナ汚染度もゼロになってしまう。
しかし、『オルドナンの神殿』で胡散臭い聖女に高いカネを払えば、制圧度とマナ汚染度を維持したまま、ほかのステータスだけ回復できる。
身も心もマナに毒された冒険者たちは、宿屋のベッドの心地よさを忘れ、虚ろな目のままダンジョンに戻るのだ。
これだけでは飽き足らず、PotAには『エンチャント』と『変異』というガチャ要素がある。
エンチャントは装備に新たな効果を付与するもの。(物理ダメージ+○○%とか)
変異はキャラ自身に新たなパッシブを付与するもの。(3本目の腕が生えて(⁈)両手武器と盾を同時に装備できるようになったとか)
『マチンの研究所』もしくはダンジョン内にランダムで現れる『マナの井戸』でそのガチャを引くことができる。
なお、リセマラ防止のため、ある程度ダンジョンに潜らないとマチンの研究所は開かない。
これまた中毒性が高く、終わりなきハクスラの道をさらに奥深いものにしている。
ダンジョン内で拾った武器や防具はその場では装備できず、一度街に戻って鑑定してもらう必要がある。
そこで登場するのが『ウォルスケン商店』である。
通常の買い物はもちろん、神殿や研究所に足繫く通うとまじで金欠になるので、ドロップアイテムの品質を向上させ、売却で金策する必要がある。
PotAはハクスラにおける「労力」と「費用」と「運」のバランスがとてもよくできているのだ。
とまあ、今まで書いたのは表面的というか、PotAを遊ぶ上での前提のような情報でしかない。
属性やら耐性やら細かい要素を書きはじめると終わりそうにないので、この辺でやめとく。
ダンジョンごとに敵の攻撃や耐性の傾向は変わり、ボスもかなり強力だ。
そのたびに死んではパネル配置を見直し、どうすれば効率的に戦えるか考える。
俗に死にゲーと呼ばれる作品と共通して、「死んだことのストレス」より「どうやったら死なないか考えるおもしろさ」が勝つ。
そして、「どうやったら死なないか」の中に前述のハクスラ要素が多分に含まれるので、どんどん沼ってしまうのだ。
早期アクセスということもあって、日に日にアプデが入り、仕様が変わっていく。
製品版リリースの際には今とはまったく違う姿になっているかもしれない。
創造主たるすずきすずぞう氏のご苦労に敬意を払いつつ、きょうもおれは虚ろな目でダンジョンに潜る。
あとhasu氏の手掛ける音楽もかっこいいので、お布施としてOSTも購入しましょう。
(すずきすずぞう氏の収益=開発費にはならないかもしれないが...)
ず。
去年ずっと真夜中でいいのに。(以下ずとまよ)にハマってるというブログを書いた。
その時点ではライブに行ったことはなかったが、この約1年と半年でずとまよのライブに5回行った。
飽き性のおれが特定のアーティストにここまでハマったのは初めて。
これまでのライブ(ツアー公演)の感想を軸に、ずとまよに対する気持ちを書き残しておきたい。
去年は『テクノプア』というツアーで2回、ことしはプレミアム会員限定の『元素どろ団子』というツアーで1回、『喫茶・愛のペガサス』というツアーで2回ほど足を運んだ。
『テクノプア』は一昔前のゲームセンターがテーマで、ステージセットもおもしろかった。
ライブ会場では某任天堂ゲームの8bitサントラが流れていたり、バンド紹介ではまた別の某任天堂ゲームの曲を演奏したり、ゲーマー的には嬉しかった。
『元素どろ団子』はプレミアム会員限定ということもあってか、普段は聴けないカバーが多かったり、ACAねのMCも長かった。
あのときACAねがマイクを使わずに地声で長々と語った「自身とファンへの想い」みたいなものは印象的だった。
『喫茶・愛のペガサス』はその名の通り喫茶店がテーマで、ステージセットもレトロな感じでかわいらしかった。
アンコールで衣装直ししたメイド服のACAねは一見の価値あり。
いずれのツアーも公平性を期すためか、ツアー中のセトリは全公演同じ。
複数公演に行く身からすると代わり映えのないライブで物足りなさはある。
そういえば、おれは今回のツアーでプレミアム会員を続けるか判断しようと思っていた。
最後の公演は席がハズレだったこともあり、若干萎えてしまったが、それでも楽しかった。
それに、幸いなことにずとまよ好きの同志にも巡り会えたので、もう少し続けてもいいかなと思った。
ちなみに、5回のうち3回は単身参加で、気楽ではあるものの、やっぱり寂しい。
というのも、ずとまよの客層は10代から20代が大半を占めており、ほとんどがカップルや友達連れ。
しかもみんな全身ずとまよグッズで武装している、筋金入りのガチ勢たち。
(なお、おれはグッズには1ミリも興味がない。)
そんな人たちに周りを囲まれながらひとりでライブを楽しむため、心を無にする瞬間が何度かあった。
ライブ終わりに誰とも感想をシェアできないまま、ひとり帰路に就くのも切ないものがある。
一方で、誰かといっしょに行っても、「恥ずかしい」と「楽しみたい」のはざまで葛藤しながら遠慮がちにしゃもじを振るう姿を見られるのもたまらない。
"あいつら全員同窓会"という曲のサビでみんなでジャンプする流れがあるのだが、今のところちょっとつま先立ちするくらいで、ちゃんとジャンプしたことはない。
結局どっちに転んでもいろんな「恥ずかしい」が待っている。
(そして、この恥じらいを感じなくなったとき、真のやばいやつが生まれるのだろう。)
ACAねは歌がうまい、というより声がいいのかな。
いまだに生歌で「ん⁇」と感じる瞬間はあるが、総じてライブはうまいと思う。
顔出しNGでウィスパーボイスだしMCも多くないので、逆にACAねの一挙手一投足に全員が刮目している。
また、ずとまよのライブはセットや演奏隊も豪華で、俯瞰してステージを見ているだけでも退屈しない。
来年のGWには横浜アリーナでずとまよ史上過去最大規模のライブが開催される。
過去のSSAなど、この手のライブで当選したことがないので、今回は当選できることを祈っている。
(無事当選しました。)
p.s.
おれは"サターン"という曲がいちばん好きなのだが、ライブではアコースティックでしか聴いたことがない。
おれは原曲のほうが断然好きなので、いつか原曲の"サターン"も生で聴いてみたい。
アコースティックバージョンを許すな。
ねちっこいフローisナンバーワン
今回もまた超個人的な見解なので同意できない人は「ふーん」くらいで流してほしい。
おれはねちっこいフローのラップがいちばんかっこいいと思ってる。
いわゆるビートにべっっったり張り付いてる系。
これについては伴侶も同意見で30分くらい議論を交わした。
クソデカ主語になるけど、黒人のラップがいちばんかっこいいと思うのはこれ。
もちろん全員が全員じゃないけど、でも黒人のラップ全般的に見て取れるオリジナリティ。
Lil WayneとかGang StarrとかMF Doomとか初めて聴いたときの衝撃たるや忘れられん。
黒人のねちっこいフローにこそ、ラップにおける『ドープ』の本質が宿ってるとさえ思う。
これがね、アジア人、特に日本人にはマネできない。
なんなんだろうね。
声質なんて簡単な表現では片づけられないほどの圧倒的な違い。
もちろん英語の発音・発語ってのは大きいけど、白人と黒人でもこれまた絶対的に違う。
白人のラップって目閉じて聴いても一発でわかるもんね、あっこれ白人だわって。
この辺もググれば喉の構造とかいろいろ理由わかりそうだけどめんどくさいからググらない(カス)
とにかく黒人のラップはほかの人種ではマネできないほどねちっこいフローでかっこいいのだ。
でね、この「ねちっこいフロー」って言ってるけど実は3種類あると思ってて、
①声がねちっこい(生まれつき)
②フローがねちっこい(努力の結晶)
③どっちもねちっこい(最強)
って感じなんだよね。
こっからはさらに個人の意見なので、見解は人それぞれ分かれるだろうけど、例えば...
①はDenzel Curryとか、フローはそこまでねちっこくない。
Nicki MinajとかDoja Catもそんな感じかも。
②は日本人で多いね、黒人ラップへの憧れがそうさせるのか、K.U.F.U.の賜物である。
昔のBESとかJinmenusagiなんて最たるものじゃない⁇
あと意外にWiz Khalifaとか、声は弾いてるけどフローでねちっこくしてる感じ。
③は選ばれしもの、おれの中で最強の座に君臨するMCたち。
前述したLil Wayne, Guru, MF Doomなど。
なお、日本人では見たことない。
この世に存在するラッパーすべてを分類してるとキリがないので思いつきレベルで書いてみた。
上の分類に同意するか否かはさておき、まあとにかくそういうことだ。
今も昔も日本語ラップで③は見たことない。
でもそれはしょうがないと思ってる。
日本語は一音一音が強いし、英語のように音がつながりにくい、流れていかない言語だ。
そうなると必然的にビートからも浮いてしまうわけで、よりラップが目立つ。
逆に言えば、おれは日本語ラップってのはそれを楽しむものと割り切ってる。
じゃあ日本人が英語でラップすればどうなるか、それもまた限界があるようで。
うーん、喉とか舌の構造なんですかね、よくわかりませんけど全然違うんですよね。
やっぱりどうしても弾いてしまうというか、ねちっこさに欠けるんですよ。
日本人のラップで黒人のラップに匹敵するほどのねちっこいフローが聴いてみたい、という夢。
しかし、日本人がラップする時点で、おれが理想とする夢のねちっこいフローは無理っぽい。
おれは諦めてた、日本人で声とフローどっちもねちっこいやつなんていないと。
そう、XGのHARVEYが現れるまでは。
それではお聴きください、XGで『NEW DNA』。
Ma チョもだち
人は変わる。
もっと言えば変わる人と変わらない人がいる。
もっともっと言えば変わる部分と変わらない部分もある。
おれは変わった。らしい。
今回も気持ち悪い自分語りだけど、なるべく周囲からの客観的な意見をもとに書いていく。
こんなブログ誰がまじめに読んでくれるのか知らんけど、ブログなんて自己満だしね。
最近のおれしか知らない人に「昔は尖ってたって聞くけどどんな感じだったんですか」なんて聞かれることがある。
あれは尖ってたなんておもしろエピソードみたいに話せるもんじゃなく、ただの痛いやつだった。思い出したくもない。
前にブログに書いた通り、おれは長年の洗脳が解けて、マジキチクルーという存在と出会う。
ある意味では、ここで最初の変化をしたのかもしれない。
ずっと鎖国してたやつが外界との接点を持ち、グループをはじめいろいろな人と関わりを持っていく。
当時の主戦場はTwitterだった。(今もか)
インターネットでの立ち回り方を勘違いしたのと、おれのねじ曲がった性格が化学反応を起こし、毒舌=おもしろいと思い込んでしまったおれは、とりあえず攻撃的なツイートばかりして、曲でもそのキャラを通した。
ツイートに関してはウケるときもあればウケないときもあったし、それで関係ない人を傷つけたり敵を作ってしまった後悔もある。
ただこれに関しては「キャラ」を演じてた部分もあって、実際のおれは絵に描いたようなネット弁慶で、リアルで会うと普通の少年だったかもしれない。
いずれにしても当時のおれにとってTwitterはすべてだったし、そこでの立ち回りが死ぬほど痛かったのは事実。
一方で、それでもおれと仲良くしてくれたグループのメンバーはもちろん、気にかけてくれたHAIIROさんやCandleさんのように、あの頃があったから今も繋がってる人もいるので、一概に否定できるものではない。
過去があって今があるというのを痛感させられる、おれとしては思い出したくもない、でも完全に否定もできない第一の変化である。
第二の変化はかれん(妻)と出会ったとき、これは自分でもわかるくらい顕著だった。
一言でいうと「丸くなった」、当時いちばん周りからいわれた言葉だ。
おれの親も「息子を真人間にしてくれてありがとう」とかれんに感謝してたほど。
かれんとの世界ができて、極論そこが充実してればほかはどうでもよくなった。
とは言えTwitterもグループも変わらず続けてたし、完全な「丸」にはなってなかった。
丸くなったというよりちょっとだけ角が取れたって感じ、still痛いやつ。
第三の変化は子どもが生まれたあたりかな。
これはよく言われることだけど、子どもが生まれた瞬間に親になるのではなく、子育てと子の成長を通じて自分も少しずつ親になっていく。
特に父親側はこれが当てはまるケースが多くて、おれはドンピシャこれ。
子どもの世話はほとんどかれんにやらせて、自分は平気でゲームしてた。家事はやっても育児はしてなかった。
そしてそれに無自覚だったし、何ならちょっと育児に手出しただけでおれ育児やってんな~くらい思ってた。
Twitterで流れてくるダメ夫(ダメ父親)みたいなツイートを見て鼻で笑ってた。おまえだよ。
最近になってやっとこれが改善されて(きっかけは不明)、かれん曰くおれも育児をできてる。
今までどれくらい自分が何もやってなかったのか痛感できるくらいには、俯瞰して自分や家庭を見ることができてる。
この変化は親としての成長過程でもあるので、これからも緩やかに続いていくと思う。
ここら辺でちょっとわき道にそれると、第二の変化と第三の変化の間で、地味な、でもおれにとっては意味のある小変化があった。
それはTwitterをやめたこと。
これは過去のブログとも内容が被る部分ではあるので、さっくり書いていく。
今のアカウントしか知らない人にはわからないだろうけど、第二の変化あたりまではマジキチクルーのさっきー(MCキムチババア)としてTwitterをやってた。
でもかれんと結婚して、就職して、徐々に音楽から気持ちが離れたタイミングで、もうTwitterをやめようと思った。
そして実際にアカウントを消した。
それと同時期に、おれは何の気なしに開いたYouTubeで『ダークソウル』というゲームを知る。
おれは元カノに洗脳されたころから、それまで三度の飯より好きだったゲームから完全に別離してた。
ゲーム機もほこりを被った初期ロットのPS3しか持ってなかった。
おれが鎖国してる間に、Wiiが終わってWiiUが出て、PS4もPS4スリムもPS4Proも出て、まさに浦島太郎状態だった。
おれが『ダークソウル』を知った時点ですでにダークソウル3の発売日はアナウンスされてた気がする。
眠り腐ってたおれのゲーマー魂が7~8年分の衝動とともに目を覚ました。
インペルダウンで解毒された直後のルフィのように、おれはダークソウルとダークソウル2とブラッドボーンを貪り食った。
そしてWiiUも買って死ぬほどスプラトゥーンやってブチギレてた。
そんなこんなでTwitterがないとゲームの最新情報をキャッチできないことから、新しくゲーム用のアカウントを作った。
それが今のsalamipizzadog。
当初は同じゲーム仲間しかフォローしてなかったので、そこではもうすっかり牙の抜けた狼、ただの犬である。
今となっては過去のフォロワーとの交流も復活したり、よくわからない雑多なアカウントになってしまった。
何が言いたいのかというと、今も昔もTwitterをやってることに変わりはないのだが、スタンスが明らかに変わった。
昔は一日中Twitterに張り付いてて、ちょっとでもおもしろそうなトピックがあれば秒で食らいついてた。
文字通りTwitterがすべてだったし、周り(フォロワー)からどう見られるかばかり気にしてた。
今はもう自分がツイートするときしか開かない、タイムラインなんて全然見ない、時事ネタや流行りのトピックには触れない。
噂話が好きだな ほかにやることねーのかクズが 人のことより自分のことだろ
ってSTICKYも言ってたしな。
ということで、だいぶ内面的な変化なのでわかりにくいとは思うが、おれにとっては大事な変化だった。
そして最後、第四の変化は「友だち」。
おれは友だちなんていらねーって思ってた、それは友だちがいないことの裏返しでもあった。
おれにとってマジキチクルーの面々は友だちというよりメンバーという感覚。
これはグループを組んだことのある人ならわかると思うけど、精神的距離が特殊というか、うまく言葉で説明できない。
2年前の12月(だったと思う)、かれん経由でとあるDiscordの鯖に招待された。
かれんのフォロワーのゲーマー女子がAmong Usをやりたいということで人を集めてた。
その手のパーティーゲームには苦手意識があったけど、おれもその人とは相互フォローだったし、1回くらいならと参加してみた。
そこにはそのゲーマー女子の友だちとか兄貴とかその奥さんとかゲーム仲間とかが混在してて、初見ではだいぶ混沌とした鯖だった。
一通り自己紹介を受けたものの、名前とアイコンと声が一致しないし、どういう距離感で話していいのかもわからなかった。
今だから言うけど、友だちなんていらねー主義者のおれだったし、仲良くなれそうにはないな、と漠然と思ってた。
というより、積極的に仲良くなろうとは思ってなかった。また呼ばれたら...くらいの感じ。
でもアモアスを何回か重ねるたびに、それぞれの為人がわかってきて、会話するのが楽しくなってきた。
単純に年齢が近かったり、好きなゲームとか漫画とかアニメがいっしょだったり、中には某バンドのメンバーがいて音楽談義で盛り上がったり...。
とても素晴らしいことに、その鯖には「いいやつ」しかいなかった。みんながみんな「いいやつ」だった。
おれはその鯖に普段仲良くしてる後輩くんも誘ったら、今度はDead by Daylightとか趣味の格闘技とかよくわからん化学反応をもたらしてくれた。
それからしばらくはみんなで遊ぶのが当たり前になり、マルチのないゲームは苦痛ですらあった。
この鯖のメンツとの出会いはおれの中でとても大きなもので、間違いなくおれのゲーム人生を変えるものだった。
でも大事なのはここから、おれが今回のブログで言いたい本題はここから...
オンラインで仲良くなるとオフラインで会おうってなるのが世の常であり、我々も例に漏れずその流れに至った。
でもおれは依然として友だちなんていらねー主義者だったので、彼らを友だちとは認識してなくて、あくまでもゲームフレンドという感覚だった。
(たぶんそんな斜に構えた考え方をしてたのはおれだけで、ほかのみんなはお互いを友だちだと思ってたんだろうな)
ことし1月、後輩くんが彼らの街を訪れて酒を飲み交わしたことを皮切りに、我々のオフ活は動きはじめる。
この鯖には行動力が服を着て歩いてるような男がひとりいて、ことしに入ってからなんと3回もこっちに遊びに来ている。
毎回飛行機と新幹線に乗ってだ、はっきり言ってあたまおかしい。
でも聞けば、彼にとってかれんや後輩くんやおれは久しぶりにできた「友だち」らしく、募る想いがあるようだ。
じゃあそのイカレた行動力に呼応するように、今度はおれが彼らの街に行くかとなると、答えはNOだった。
しかし今回、行動力が服を着て歩いてるような男ともうひとり、司法書士試験に臨むストイック青年の2人が遊びに来た。
行動力が服を着て歩いてるような男曰く、今までの一泊二日では足りないということで、今回は二泊三日で我が家に泊まってくれた。
みんなでタコス食べたり観光したりお祭り行ったりボドゲしたりUNOしたり、やってることは当たり障りのないもの。
それでも、そういうTHE友だちとの交流をスキップした人生を送ってきたおれとしては、なかなか響くものがあった。
楽しい楽しい三日間を終えて、おれは自然と「今度はおれが行こう」と思った。
おれの友だち観の変化というか、今までずっと行く気のなかったおれが、自発的に自然と行きたいと思えた。
これはやっと彼らを友だちと認識したとかではなく、たぶんずっと前から友だちと思ってて、彼らがおれに向けてくれる純度100%のピュアな友情に打たれて、おれが素直になれたんだと思う。
おれにとっては非常に大きな変化であり、齢32にしてやっと「おれには友だちがいる」といえる気がする。
何をもって友だちなのかはよくわからない。
ゲームだけいっしょに遊べればいい、別に会いたいとは思わない人もいる。
Twitterで交流できればいい、別に会いたいとは思わない人もいる。
でも彼らに関しては、いっしょにゲームしたいし通話したいし会って話して遊びたいと思う。
そう思わせてくれる人間的な魅力がある。
そしてそれを裏付ける行動力、こっちの街までわざわざ足を運んでくれたという事実。
好きなら好きって言おう、その次は態度で示そう、最後は行動で証明しよう。
友だちいっぱいはいらない、No New Friendsってのは今のところ変わらない。
前にも言ったけど、おれの好きな人たちがおれを好きでいてくれるからおれはおれを好きでいられる。
友だち、大事にしよう。